昭和44年03月20日 朝の御理解



 御理解 第71節
 「ここへは信心のけいこをしに来るのである。よくけいこをして帰れ。夜夜中、どういうことがないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供がある者や傭取りは出て来るわけにゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来ることはできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。

 これ71節を頂いておりますと、本当に信心というのはみやすいものじゃが、氏子から難しゅうすると仰るが、本当にあのうみやすいもんだなと言う様な感じを受けますね。まめな時ここへ参って信心の稽古をしておけ。仕事がある者や日傭取りは出て来る訳にはいかん。毎日出て来る訳にはいかん。病人があったりすれば捨てておく訳にはいかん。という風になりますと、御信心は自分の都合のよか時お参りすれば良いと、言う様な感じを受けますね。ところが実際はそういう事じゃないですね。
 ここへはこの沢山この稽古という言葉を使ってあります。稽古をしに来るのであると。稽古をして帰れ。信心の稽古をしておけと言う様に、この稽古稽古という言葉を沢山使っておられます。昔ここへ修行しておりましたある方が、その人のお姉さんが何ち言うでしょうかね。言うならまぁ御祈祷をなさる、その拝み屋さんですね。ところへ毎日お参りをされる。ある時その人は姉さんを自転車に乗せて、そこに送って行ってやった。それでまぁ貴方もお上がりなさい。
 どうぞまぁ拝みなさいと言う様な事を言われた時に、その人が言うその当人さんに言うておる事がですね、「私はの当時椛目ですから、椛目に信心の稽古に行きよりますから、まぁここでは拝みません」と言った様な意味の事を言った。そしたらその当人さんがたまがってしまわれた。はぁ信心の稽古に行かれるのですか。流石にやはり仏様を拝まれる方だったですね。まだ若い祈祷師です。信心の稽古に行きなさるとですか。言うならここにも沢山参って来よるけれども。
 ここには信心の稽古にどん通うて来るもんな一人もありません。さぁ病気があるとか失せ物があるとか。何か自分の頼み事があるとかという時だけしか参って来ません。貴方は椛目に信心の稽古に行きなさるですかと言うて、その何回も繰り返して念を押して言うたと言うて、その事を言うておりましたがね。やはりあの信心というのは、いわゆるおかげをもらいに行くものだと、お願いに行くものだと。そう皆んなが思っておりますからね。そこでその稽古と言う事なんですけれどもね。
 どうでしょうかね本当に信心の稽古、いわゆるここに最後に書いてあります、まめな時ここへ参ってと仰るそのまめな時。言うなら何もない時健康な時、平凡である時無事である時。その私はまめな時にここへ参って信心の稽古をしておけと仰る、本当にその稽古をさせて頂くという事になったらね、それはもう大変な素晴らしい事だと思います。けれども本当に稽古に通うて来る者は少ないです。本気で信心の稽古をいわば日々教えに基づいて、しかもその教えをですいよいよ探求をする。
 深く広くそれを分かろうと勉強する。そしてそれを実際行動の上にもそれを行の上に現して行く。それはおかげを受けるというだけではなくて、信心の稽古をして行く。ですからいよいよやはりまぁ信心が好きにならねばと言うか。本気で稽古に通わせてもらうと。もういわゆる純粋なる信心の稽古に通う事になったらですね、上達もメキメキ上達するでしょうけれども、より信心の有り難さというものがです身について来てです。とてもとても私この71節をこれはもういつぅも頂く御理解だしね。
 どう今日皆さんにこれは御理解させて頂くものだろうかと思わせて頂いて、あのまた次のところを頂きましたら、あのう御理解37節ですね。「生きておる間は修行中じゃ。ちょうど学者が年をとっても、眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞい」、という御理解がございますね。いわゆる学者になるからには本気で勉強しなけりゃ学者になられやしません。その学者がですいわゆる一生が修行と言う様な、そのうまぁここには厳しく修行出ておられますけども。
 もう勉強というものは限りがないのだと学問というのは、これで良いという事がないのだと。学者が眼鏡をかけて年をとっても、やはり本を読むようなものであろうぞいと仰せられるようにです。信心もまたそれは学問よりもっともっと限りのないものである。それを本気で勉強すると言うか稽古をする気にならせて貰い、稽古をしよると分からんところが出けて来る。明くる日は行ってまたそこを習う。それをまた予習する復習をするというようにです。繰り返し信心の稽古をさせて頂くところからね。
 こりゃ大変な事だな信心とはと。人間と信仰と。人間と幸せと。人間と未来。人間と過去と過ぎ去った事。人間と今日的問題、それを全てが信心の稽古の対象にならないものはないのですから、実に大変な事なんです。現実の問題。それを踏まえての稽古。そして過去の事。それからこれからの事。いわゆる未来に繋がる事。そう言う様な事をもうどれだけ勉強しても、勉強しても限りがない程に信心というものは教えてある。少なくとも金光様の御信心はそういう、まぁ深淵なと申しましょうかね。
 深い、遠い、広い、中身を持ったものであるから、その稽古をして行こうという事は、それはもう本当に大変な事なのですけれども、それがね楽しく一つひとつ自分のものになって行くという体験。覚えて行くだけじゃなくて、金光様の信心の稽古と言うのは、それには必ず体験が伴うて行くのである。そうなって来ると成程信心は止められんと言った様なものではなくてですね、いわゆる大変な事だと。まぁようも信心にご縁を頂いておったもんだなと。これをもし10年後20年後。
 又はもう年をとってもその余生をあずかるという事になってからでも、これは御神縁を頂いとった分じゃ大変な事だったけれども、お互いがこの時期にこの若さで、しかもまっ、こで合楽の人で言うならば、合楽という所にご縁を頂いておったという事は大変な事だ。さぁ今の内に参ってしっかり信心の稽古をしとかにゃと、言った様な事になるのじゃないでしょうかね。本当に今の内まぁ言うならそれはどういう事かと言うと、親先生がござる内本気でそこは信心の稽古をしとかにゃならんなと。
 言う様な事がです日々ここでは説きそれをまた明かされてあります。その事にいわば取り組んでお互い信心の稽古をするという事になったら。だからこの71節というのはね、言葉には病人があったり、日傭取りやらは毎日出て来る訳にはいかんと。だからそのまめな時信心の稽古をしておけとこう仰る。いわゆる頼む時とか願う時と言った様な事のない時。いわゆる純粋な信心の稽古をしておけというところが、ここの私は御理解の一番焦点にならなきゃならんところじゃなかろうかとこう思う。
 ところがそのまめな時に参って来よるけれどもです。いや何もない時に参って来よるけれどもただ参って来よるだけで。まめな時であればあるほど熱心に御理解を頂こうともしない。本気でその事を稽古しようともしないね。雑のうかろうちから学校に行きよるけれども、学校じゃその本も見よらんと言った様な勉強の仕方ではいけないという事を、ここでは教えておられると思うのです。本気でさぁ信心の稽古をさせて頂かなければいけません。そこから限りのない喜び限りのない平生心と言うかね。
 安心の心に繋がる信心が生まれて来る時です。今日は雨が降るから風が吹くからと言う様な事で、今日は御無礼しとこうと。またここに書いてあるように、例えよしいくら日傭取りであろうがいかに病人があろうがです、それを例えば置いて参って来る訳にはいかんと言うておらるから、楽なんですけれども。それを置く訳にはいかん事になって来る。いやそうした方が、例えばなら有り難い事になって来る。なるほど学者が眼鏡をかけて、本を読むようなものであろうぞいと仰る。
 もう学者と言われるまでに、どのぐらいの本を読破してきたか分からない。どのくらい勉強して来たか分からない。学者と言われる事になれば。それでもまだ限りなしに新しい本を読もうとする。だから信者と言われる。学者じゃない信者。信者と言われるまぁね、ちょうど年をとってもです、いよいよ有り難い勿体無いという味わいが分かって来れば来るほどです、いかに年をとってもそれこそ眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞいである。腰は曲がっても杖をついてでもね。
 お参りをする様なものであろうぞいと言う事になるのじゃないでしょうか。私共ですらもそれを感ずる。例えばなら三代金光様が84歳におなりになっても、やっぱりあのう毎日の御神勤というのがです、もうそうしなければおられなさらなかったのであろう。是はもう80にもなってから、朝四時からと言った様なものがない。成程年をとっても腰はこう屈んでおられてもです、車で送り迎えがされられる様に手押し車で、御自宅から御広前までをもう御晩年の頃は車に乗って。そしてあの御広前にお通いになりました。
 それこそ学者が年をとっても眼鏡をかけてでも、本を読むようなものであろうぞいという事になるのじゃないでしょうかね。だから信心というものはそこまでね、頂かなきゃならんのですけれども。それにはね私共が本気で稽古をさせて頂こうという気にならなければいけない。今日のこの稽古ということ。自分な毎朝こげんやって朝早うから参りよるが、果たして何を稽古して帰りよるじゃろうか。なるほどお話は頂きよる。御教えをちゃんと控えて帰りよる。
 それをどのように稽古の上に現して行きよるじゃろうか。稽古をしないから味わいが分からん。稽古をしないから願わなければ頂けんおかげになって来る。稽古をすりゃ言うならば御利益の方ですね、おかげの方は願わんでも頼まんでも、おかげはある。昨日三橋先生ところの霊祭にも私その事を話させて頂いたんです。例えば私がこう後ろへやっと、今は手がこう回る位です。痛い押さえれば痛い。けれども痛いと言う様な事やら、その不自由であるとかて考えた事がない。有り難いの方がいっぱいである。
 もう願うという事なんか全然願う、願うちゃならん。この頃久留米のあの信徒集会の時に、それはどっか三井教会の御婦人の年寄りの方が発表してましたですね。孫さんが火傷をした時に、嫁さんに教会にお願いにやる時に、決してお願いはしちゃでけんばい。お礼ば申し上げて来てくれんの。とにかく決してお願いをしちゃならんと言う様な事を、まぁ言うたと言う様な話をしておられましたが。もう願わんで済むおかげ。だから実際は願わなければおられないのであり願います。
 けれどもそれが段々普通で言うならば、ここを治して下さい良うなして下さいと言わなければおられないような事であろうけれども、私にとってはそれを願ったり例えば頼んだりする気持ちが起こらんほどに、それは無関心であるその事に対して。それはここでそのう願うちゃならんばい。願うちゃお願いして来なさんなと言う様なものでもない、実際は。けれどもそれがですね、本当にその有り難いものになって来る、おかげを受けなければならんですね。それがそのこれはもうここんところはその実感ですからね。
 例えばそれ昨日三橋先生にあんたが袴もだいぶ出世したと。ぴかぴかが光るごとなった。もう十何年になるからたら親先生もうおかげで、これはこの袴は冬は暖かですし夏は蚊が食いませんから。もう有り難いものばっかりしかない。こればいっちょ買わにゃん繕い作り替えんならんと言った様なものが全然ない。それを最高の物としてですね夏冬それが有り難い物として、それを頂いて行っておる。そう言う様な気持ちがですねもっともっと広く深く大きくそれが生活の上に、心の状態の上に現われて来るおかげ。
 そういうおかげをまぁ頂きたい。今日はこの71節から、今日私皆んなが成程暇ん時参って来いと言った様な感じに言葉を、まぁつづくそういう事になりますけれどもここの場合。けれどもよぉく見て行きよるとです、ただ所どころに書いてある稽古稽古というところを良く思わせて頂きよるとです、これは大変な事だなと。沢山の人が例えば金光様の信者があるが。その沢山な信者が果たして、私は合楽に信心の稽古に通いよりますと、本当に例えば言えれる信者が何人あるだろうか。
 信心の稽古に通いよりますと、例えよし口では言うても、心はおかげを貰いに行きよりますという事の方が、本当に重い事はないだろうかと。本気で信心の稽古をする事になればです。いわゆる学者への道はつく。言うなら信者本当の意味においての信者の道がつく。本当の信者じゃとこう言う。あれもおかげであったこれもおかげであったと分かるようになると、一人前の信者じゃとこう言われる本当の信者じゃとも言われる。その本当の信者を目指すという事はです、私は本気で信心の稽古に専念しなければ分からん。
 そこにあれもおかげこれもおかげと言えれるような、その境地を開かせて頂く。しかもそれには限りがない。あれもおかげと思う思う度合いというものには限りがない。これもおかげと思う実感する事には、その実感の深さ広さと重さとも言おうかというものは、もう限りがない。そこにやはり本当のいわゆる本当の信者じゃと仰る、信者というものになるが頂ける。そういう信者になったら結果どういう事になるかと言うとです。年をかけてもね学者が眼鏡をかけてでも本を読むように。
 年はとってもやはり教会通いをしなければおられないという事になる。教えを受けに参らなければおられなくなって来る。なるほどそういうところにです、一生が修行じゃという事にもなって来る。だから一生が修行じゃと言うと大変厳しいのだけれども、学者が眼鏡をかけて本を読むようなものというものは、もうその少しずつでも新しい学問が身につく事が楽しゅうてたまらんのである。信心の徳というものが段々身について行くとが、もう有り難うしてたまらんのである。
 おかげで過去の事も段々分かって来た。しかも過去のめぐりのお取り祓いが頂けれる術と言う様なものが分かって来た。今日的この問題にこう取り組まねばならん。そしてそれもおかげである事を分からせてもらわなければならん。これからの事。この信心を頂いて行きゃいよいよ間違いはないなと。この信心さえ頂いて行きゃ未来にも、有り難いものが繋がって行く事の確信が出けるようになる。
 これは死ぬる事とても大した恐いと言う様な事じゃ、困ったという事じゃないぞというようにです。まぁ有り難いそうした死生観というものまでが身について来るようになる。そこんところを目指しての信心の稽古でなからなければならん。71節をこれは簡単に私共は読み、または頂き過ごしておったように思う。これはここの稽古というところに、本気でその焦点を置いて。
 果たして今日は稽古に通うたが、何ば習うて来たじゃろうかと思う。はぁ今日はこれをここんとこを習うた。そんならここんところを本気で今日もそれに取り組ませて頂いて、実際問題と現実の問題とそれとを対象としたり、又はその問題と頂いて来た教えとを、まぁいわゆる活用すると言うかね。その教えによって今日一日が私の今日一日が支えられると、言う様なおかげを受けて行く、稽古をしなければならんと思うですね。
   どうぞ。